恐怖体験 火事編

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

友人、知人の皆様、例年同様年賀状をお送りしませんで申し訳ございません。この場を借りて、新春の挨拶とさせて頂きます。年明け一発目は、長文・駄文にてご勘弁を。
ニュースや新聞で見る災害、事件、事故などには一生関わりたくないし、蚊帳の外の出来事だと思っていたが、年明け早々、遭遇してしまいました。
実家にて、天皇杯ジュビロ磐田が惨敗し歯がゆい思いをするも炬燵、テレビ、ミカンの典型的な元日を過ごし、トリビアの泉で紹介された一富士、二鷹、三茄子、四扇(おおぎ)、五煙草(たばこ)、六座頭(ざとう)を思い出しながら、初夢を見ようと午前2時過ぎ寝床につくも夢を見ることなく、叩き起こされました。今までに見たことも無い形相の母親に。なぜか、目覚め爽快な状態で起き上がり、外に出てみると南隣の築35年以上の木造平屋建屋が燃えているではないか!! そう火事が隣家で発生したのだ。東側の玄関の木扉は、開いていて火柱が立っているのが見えた。テレビで見た素人の投稿ビデオや、たまたま近くにいた報道カメラマンがスクープした火事の映像以上の迫力。当然か。何とも言えない程の恐怖。そして、熱さ。近くでは、茶髪の細身の兄ちゃんが「消してくれー!!」って泣き叫んでいた。この姿を見たときも正直怖かった。母親や東隣のご主人の「大事な物、運んで」の呼び掛けで、土足のまま部屋に上がり、鍵、財布、携帯電話を持ち外へ。携帯を見ると5時26分。外では、ホースの水で消火している人を見て、実家の外に備え付けている水道のホースで応援しようとその場所に近づくも、母親が「凍っているから使えん」の声で断念し、消火器と思ったが子供の頃は、近くに町内会が設置した消火器があったのに数年前から無くなっている事に気づき、「何で無いんだ」で思わず叫んでましたよ。その後、周りを見ると庭にある軽自動車(ダイハツミラ)のドアに鍵を差し込もうとしている父親が。父親には軽トラック(ホンダアクティ)を頼み、自分が軽四に乗り込みエンジンを始動。1速に入れ、サイドブレーキを解除しながら前を見ると、フロントガラスが凍ってて何も見えましぇーん。急いでドアノブを回し、運転席側の窓を開け、窓から顔を出しながらゆっくり前進。隣接する空き地に移動し、一足早く来ていた父親の軽トラ近くに駐車。再度、家に戻りジャンバーと通帳類の入ったセカンドバックを持ち出し、そのバックと母親が持ち出してきたバックを軽四の中に入れた。自転車2台を軽四の近くまで移動。靴下も持ってくればよかったと思いながらジャンバーを着込み(外は、極寒だった)、携帯を見ると5時36分。空き地で母親と火事を見てると、父親が大工の仕事道具が入った倉庫の鍵を開けているのを発見。ちょっとした後、中から両手にむき出しになった書類を抱えた父親が出てきて、これらを受け取り、軽四の中に入れた。すると父親は、倉庫に戻っていき、いつのまにかホースを持った防火衣の消防員が駆けつけていた。燃えている家屋を見ると、なんと、その家の北側にある2本のプロパンガスのボンベ(目測で高さ約170cm)のうち1本の元栓から、青い炎が噴射されていた。ガスバーナーの火のように。これを見た母親は「おとうさん〜、はやくでてきてー」と叫んでた。さすがに自分も何やら叫んでいた。ボンベとその倉庫は、わずか3m程の距離で爆発したらお仕舞いなんで。そんな叫び声も露知らず、白色の発砲スチロール箱を両手に抱えて出てきました父親が。何が入ってねん???と思うも、これを受け取り、軽四の中へ。その後は、燃える家屋の東側と西側を行ったり来たりし、消火活動の見学。東側の玄関口と西側の壁に向けての集中消火で、徐々に消え、最後は家庭用のホースで家の中を消火し、隣家が燃えることなく鎮火。負傷者ゼロで風が吹いていなくて本当に良かった。風向きによっては、我が実家も延焼していたでしょう。我が実家の被害は、電話が不通になったこと、隣家との境との壁やベニヤ板が熱で燃えていたこと、燃えカスで庭や屋根が汚くなったぐらい。気になったのは、プロパンガスのボンベを引きずりながら、暗くて見えない溝に足を取られ、こけて、ボンベの下敷きになった隊員。普通なら笑える光景だったが、全然笑えないどころか「しっかりしーや」って感じ。プロパンガスを安全に処理したのは、さすがプロだなって感服しますが。あと、野次馬の車は消火活動の迷惑にならないようにせよ。警官がマイクで移動するよう怒ってましたよ。消火中、駆けつけた車を数えてみたら、消防車7台、救急車1台、パトカー3台、中国電力1台、記者1台、野次馬?台。次々と人がいなくなり、6時半過ぎ寝床に着くも神経が高ぶっちゃって眠れましぇ〜ん。7時過ぎには家族3人で雑煮を食べたとさ。
 最後に、町内の防犯パトロール消防団を含め、消火活動に携わった方々に感謝致します。
以上は、その時の状況を思い出しながら翌日書きました。まだまだ書き足りませんが意外と詳細に覚えていたのに驚いています。翌日の新聞(山陽、朝日)には「民家全焼」って小さく記事になっていて、1月2日午前5時15分出火。町名はあったが番地までは掲載されていなかった。ちなみに母親は、その夜、火事の恐怖で眠りが浅かったそうな。火事は、本当に怖いでっせ。